2008年 08月 15日
じゃぽんのお盆と敗戦記念日。 |
広東語のレッスンに行った火曜日を除いて、後3日は全て「フロアにおける最後の退出者」となりましたcoco.。です、こんばんは。頑張った、私♪
と、別に10時11時まで働かずとも最後になっちゃう、という「異例の事態」が起こるあたり、今週は皆のんびりムード、モード、そしてじゃぽんはお盆、おぼんじゅ~る♪(byぶさん)。
そんな今日はドイツ人は阿波踊りに・・・阿波踊りを楽しむドイツ人カップル。面白い。
じゃなくて。今日は世間で言うところの「終戦記念日」そして「敗戦記念日」です。
ぼんやりと、玉音放送は大体何時からだったんだろう、と思ってみたけれど、わからず。朝かお昼か。夕方ということはないのでしょう。
先日知人からいただいた講演会の冊子(彼は被爆者ですので)によれば、村17軒のおうちの方皆が彼のおうちに集まって聴いたのだとか。各家に性能の良いラジオがあるわけでもない時代、そして山の中だったからだそうなのですが。
戦争を肯定しない態度をとれば「非国民」。そんな時代の中にあって、彼のお母さんは村の人たちが帰ったあと、「これでようやくお父さん(彼女にとっては夫ですね)が帰ってくるよ」と言って泣いた、そしてその涙を彼は忘れることができない・・・。
きっと様々な状況、背景、事情があるのでしょうが、これは「よいおうち」の娘に生まれ、医者の家に嫁ぎ、夫が出征して5人の子供(彼を含めてか除いてかは不明)を抱えて苦労を重ね、挙句に原爆に遭い、病床に伏した一女性の心情なのです。
なのです、と書いたけれど、その苦労や、その中で「戦争が終わった」と告げられて感じたことは、ほんとうには、私にはわかりません。
色んな人が、色んな形で、状況で、この放送を聴いた。その誰の心境をも、私たちは知ることはできないし、理解できない、ただその中で唯一言えるのは、そのような状況にある人の心境を理解できてしまうような世の中には二度となって欲しくないんだ!というのが、戦争経験者の一番の叫びなんだろう・・・(やっぱり断言はできないんだけど)ということです。
もう空襲警報に怯える必要はなくなった、とはいえ、食べるものもなく、着るものもなく。「元通りに」なんて戻れない。それは、一体どういう状況なのか、わからないのです。
といっても、戦争は今もそこここで起こっているというのも事実なのですが・・・。
戦争というものは、「国家」や「体制」を通して見ることもできれば、「個人」を通して見ることもでき、ために話が(あるいは私の頭の中が)ややこしくなりがちですが、多分別個に考えるべきなのでしょうね、まずは。
と、いうよりは、今も戦争や紛争が絶えないのだから、考える、過去を検証することも大切だと思うけれど、同時に、こつこつと平和を築く、少なくとも「努力」をしていこうではないか、と、思うのです(偉そうだな・・・)。
一人もらさず全ての人を、絶対的に幸福に導く体制も、国家も、政治も思想もありはしないけれど、おそらく全ての人が「自分が食べるため」「家族にお腹いっぱい食べさせるため」にばりばりばりと頑張った、それは「つい最近のこと」であって、それと同時に「そういう状況は二度と起こらない」とは言えない、のだなとも思います。
お昼に何を食べようか、あれもこれも飽きた、なんていう贅沢(というか馬鹿な発言というか)は、「あらかじめ」手にしていたものではない、というのは事実なんだと思うのです。
そして。
さらりと書いたけれど、そう、いただいたのです、知人のじいちゃまから、彼が自身の被爆体験を話した講演会の記録冊子を。「あんたにこれあげたかのぅ?」と言って。
大切に大切に読みました。
一番下の妹が生まれたのは父親が出征した後で、そして彼女は亡くなった。彼女はお父さんに抱いてもらえたんでしょうか?それは冊子ではわからなかったし、そして、なかなか聞けることではないと思いました。
そして朝鮮人被爆者のこと。当時広島に住んでいた朝鮮人の内、実に6割が亡くなった(5万人中3万人)ということでした。
それは、投下時に亡くなった方だけではなくて、後に亡くなった方も含む数字なわけですが、朝鮮人の方たちというのは、疎開もさせてもらえなかったそうです。文化が違うので向かない、という理由の他に「畏れ多くも皇国臣民にしていただいたのだから」「日本人にしていただいたのだから」「子供といえども銃後の守りをするべきだ」として。でも実際は「半島人」と呼ばれていたらしいのですが・・・。
そして彼らは8月6日の後も、市内に、残留放射能が強く残る市内に留まらざるを得なかったし、飲料水だって放射能を多量に含んでいたのです。
と、いうのは、彼の冊子、講演の記録を読んで知ったこと。
先日、その知人の彼は朝鮮人被爆者のために戦ってこられた、なんて書いたけれど、実は正しくないのかもしれない。でも彼は毎回、被爆の証言をするたびに、朝鮮人被爆者のことを話す、それはほんとうで(それは直接聞いたので)、それも貴いことだし、同時に、被爆体験を語り続けるだけでも大変なのに、それを続け、さらにその中で自分のことだけじゃなくて他者のことも(他者、と彼は考えていないかもしれません)伝えるその感性にも感動するのです。
つくづく、すごい人っていっぱいいるなあと思います(色んな人がいる中で、やっぱり私は出会いについて恵まれている、ということ)。
そんな彼は先日会ったときはゲバラのTシャツを着てましたが・・・かっこいいぞ!
ちっこいながらも、平和の担い手になるように。日々を生きていこうと思うのです。
(余談ですが今の住環境にあって、ほんとうに、「今日が最後かもしれない」と毎日思っているので、なんだか、いちにちいちにちがとっても大切なのです。ってちっこいかな、これもっ)。
と、別に10時11時まで働かずとも最後になっちゃう、という「異例の事態」が起こるあたり、今週は皆のんびりムード、モード、そしてじゃぽんはお盆、おぼんじゅ~る♪(byぶさん)。
そんな今日はドイツ人は阿波踊りに・・・阿波踊りを楽しむドイツ人カップル。面白い。
じゃなくて。今日は世間で言うところの「終戦記念日」そして「敗戦記念日」です。
ぼんやりと、玉音放送は大体何時からだったんだろう、と思ってみたけれど、わからず。朝かお昼か。夕方ということはないのでしょう。
先日知人からいただいた講演会の冊子(彼は被爆者ですので)によれば、村17軒のおうちの方皆が彼のおうちに集まって聴いたのだとか。各家に性能の良いラジオがあるわけでもない時代、そして山の中だったからだそうなのですが。
戦争を肯定しない態度をとれば「非国民」。そんな時代の中にあって、彼のお母さんは村の人たちが帰ったあと、「これでようやくお父さん(彼女にとっては夫ですね)が帰ってくるよ」と言って泣いた、そしてその涙を彼は忘れることができない・・・。
きっと様々な状況、背景、事情があるのでしょうが、これは「よいおうち」の娘に生まれ、医者の家に嫁ぎ、夫が出征して5人の子供(彼を含めてか除いてかは不明)を抱えて苦労を重ね、挙句に原爆に遭い、病床に伏した一女性の心情なのです。
なのです、と書いたけれど、その苦労や、その中で「戦争が終わった」と告げられて感じたことは、ほんとうには、私にはわかりません。
色んな人が、色んな形で、状況で、この放送を聴いた。その誰の心境をも、私たちは知ることはできないし、理解できない、ただその中で唯一言えるのは、そのような状況にある人の心境を理解できてしまうような世の中には二度となって欲しくないんだ!というのが、戦争経験者の一番の叫びなんだろう・・・(やっぱり断言はできないんだけど)ということです。
もう空襲警報に怯える必要はなくなった、とはいえ、食べるものもなく、着るものもなく。「元通りに」なんて戻れない。それは、一体どういう状況なのか、わからないのです。
といっても、戦争は今もそこここで起こっているというのも事実なのですが・・・。
戦争というものは、「国家」や「体制」を通して見ることもできれば、「個人」を通して見ることもでき、ために話が(あるいは私の頭の中が)ややこしくなりがちですが、多分別個に考えるべきなのでしょうね、まずは。
と、いうよりは、今も戦争や紛争が絶えないのだから、考える、過去を検証することも大切だと思うけれど、同時に、こつこつと平和を築く、少なくとも「努力」をしていこうではないか、と、思うのです(偉そうだな・・・)。
一人もらさず全ての人を、絶対的に幸福に導く体制も、国家も、政治も思想もありはしないけれど、おそらく全ての人が「自分が食べるため」「家族にお腹いっぱい食べさせるため」にばりばりばりと頑張った、それは「つい最近のこと」であって、それと同時に「そういう状況は二度と起こらない」とは言えない、のだなとも思います。
お昼に何を食べようか、あれもこれも飽きた、なんていう贅沢(というか馬鹿な発言というか)は、「あらかじめ」手にしていたものではない、というのは事実なんだと思うのです。
そして。
さらりと書いたけれど、そう、いただいたのです、知人のじいちゃまから、彼が自身の被爆体験を話した講演会の記録冊子を。「あんたにこれあげたかのぅ?」と言って。
大切に大切に読みました。
一番下の妹が生まれたのは父親が出征した後で、そして彼女は亡くなった。彼女はお父さんに抱いてもらえたんでしょうか?それは冊子ではわからなかったし、そして、なかなか聞けることではないと思いました。
そして朝鮮人被爆者のこと。当時広島に住んでいた朝鮮人の内、実に6割が亡くなった(5万人中3万人)ということでした。
それは、投下時に亡くなった方だけではなくて、後に亡くなった方も含む数字なわけですが、朝鮮人の方たちというのは、疎開もさせてもらえなかったそうです。文化が違うので向かない、という理由の他に「畏れ多くも皇国臣民にしていただいたのだから」「日本人にしていただいたのだから」「子供といえども銃後の守りをするべきだ」として。でも実際は「半島人」と呼ばれていたらしいのですが・・・。
そして彼らは8月6日の後も、市内に、残留放射能が強く残る市内に留まらざるを得なかったし、飲料水だって放射能を多量に含んでいたのです。
と、いうのは、彼の冊子、講演の記録を読んで知ったこと。
先日、その知人の彼は朝鮮人被爆者のために戦ってこられた、なんて書いたけれど、実は正しくないのかもしれない。でも彼は毎回、被爆の証言をするたびに、朝鮮人被爆者のことを話す、それはほんとうで(それは直接聞いたので)、それも貴いことだし、同時に、被爆体験を語り続けるだけでも大変なのに、それを続け、さらにその中で自分のことだけじゃなくて他者のことも(他者、と彼は考えていないかもしれません)伝えるその感性にも感動するのです。
つくづく、すごい人っていっぱいいるなあと思います(色んな人がいる中で、やっぱり私は出会いについて恵まれている、ということ)。
そんな彼は先日会ったときはゲバラのTシャツを着てましたが・・・かっこいいぞ!
ちっこいながらも、平和の担い手になるように。日々を生きていこうと思うのです。
(余談ですが今の住環境にあって、ほんとうに、「今日が最後かもしれない」と毎日思っているので、なんだか、いちにちいちにちがとっても大切なのです。ってちっこいかな、これもっ)。
by blessedcoco
| 2008-08-15 21:37
| 日々の出来事