2007年 03月 19日
感謝もろもろ。 |
「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(ローマの信徒への手紙12章10節)。
というわけで、初?の聖書引用だす。っていうか、でも思ったことは別にキリスト者だけのもんなんかじゃないと思う。
いつもだったら「はぁ、それって人によるよね。でもまあそう思っておけってことか」程度(すごい偉そう)に思ってただろうと思うのですが、今日はそう思いかけて(かけたんかい)、はた、と。
や、皆すごいやん?って思いました。まー偉そうコメントで申し訳ございませぬ。
私が頑固だというのもあるけれど、誰に対しても全面的に同意できたり、「え、そうかい?」と思わないわけじゃないです。同じ人に対してですら、「おお、らぶ」と思うときもあれば、「それってありなんかなー」と思ってしまうときもあるんです。
でも。当たり前すぎて恥ずかしい、て気もするけれど、「みんな、すごい」って思ったのです。それは職業人としてのプロ意識だったり、専門知識のこともあれば、みせる姿勢であったり、思いもよらない視点、だったりします。
そう思ったら、会堂にいる人全て、や、いつも関わる、時々関わる、全ての人との時間を単純に感謝して、そういうものが与えられている事実に感動しました。
うおー、神様ありがとう!って。だってね、それが神様であるのはキリスト者だからだけど、そうでなくても、そんな素晴らしい関係、機会に恵まれることって、「全部俺のおかげじゃ」なんて思えないんですもの。
はー・・・幸せ。
そしてつくづく思えば、孤独というものだって、そりゃ「ひとりでも孤独だけど誰かといても孤独なのはあったりまえじゃー」とも言えるけど、それを暗い気持ちでとらえていたけれども、そうじゃなくって、「それぞれに与えられたgiftがあって、それは皆違うもので、そしてそれをひとりひとりが”自分のgift”を掘り出して磨いていく、ひいてはそれが周囲にもつながっていく」ことに専心するのは「ひとりよがり」でも単なる「ビバ自分」でもなくって、「正しく美しく尊い義務」なんだなーって思いました。そうしていく人たちと、自分とが、点や線でもって関わる場面があって、機会があって。勿論悲しい気持ちでその関わりが終息しちゃうこともあるんだけれど、でも「すごいな」って思って尊敬・尊重できる人と出会えた、関われた輝きそのものは、誰にも奪えないなと。そして終わってしまっても、相手の、自分の「gift増やし」は続いていって、また新たな輝きにつながるんだなあって。勿論、幸せなことに、永らく続く関係だっていっぱいあるわけで。
そう思ったら、生きていること、自体がとんでもなく幸せって思えるなと。
今日は礼拝で明日誕生日(もう今日か)であると紹介していただき、お祈りいただきました。牧師の祈りは耳に聞こえる。で、それを聴いていたけれど、ふ、と、「ああ、会堂にいる人たちが、それぞれに祈ってくださっているんだな」って気付いて、うおー幸せや!と思いました。祈り、だったから、信仰が同じだから、だけじゃなくって。祝ってくださる人が少なからず与えられているんだ・・・って。それを、気付かずにきた私もたいがいですけど。
そしてピアノ上に飾られていた花、を活けてらした方が、その大事なお花をくださいました。またまた感謝・・・。
昨年は30歳節目や!とか思って、祝ってもらうことに腐心していた面があって。で、よりによって総会あったり長引いたり、よっぱー背負って帰ったりなんかして。ぶーぶー思ってたこともあったけど。
でもね。あの日ひとりで帰って寝るってのじゃなかったことそのものが、幸せやったやんと思います。結構ネタにしてるけど(ミハごめん)。
今は彼女がうちにくることもないんだけども、時折思い出すのは、ある日彼女が来てるってのに、どーしても眠くて寝ちゃって、ぼんやり半覚醒したときに、丁度彼女がぱちぱちと電気を消しているのを見たときに、なんとなく、ふんわりあったかい安心した気持ちになったこと。
一緒にいてくれる人がいる。めちゃめちゃ嬉しいなって思います。
みんなありがとー!!
というわけで、初?の聖書引用だす。っていうか、でも思ったことは別にキリスト者だけのもんなんかじゃないと思う。
いつもだったら「はぁ、それって人によるよね。でもまあそう思っておけってことか」程度(すごい偉そう)に思ってただろうと思うのですが、今日はそう思いかけて(かけたんかい)、はた、と。
や、皆すごいやん?って思いました。まー偉そうコメントで申し訳ございませぬ。
私が頑固だというのもあるけれど、誰に対しても全面的に同意できたり、「え、そうかい?」と思わないわけじゃないです。同じ人に対してですら、「おお、らぶ」と思うときもあれば、「それってありなんかなー」と思ってしまうときもあるんです。
でも。当たり前すぎて恥ずかしい、て気もするけれど、「みんな、すごい」って思ったのです。それは職業人としてのプロ意識だったり、専門知識のこともあれば、みせる姿勢であったり、思いもよらない視点、だったりします。
そう思ったら、会堂にいる人全て、や、いつも関わる、時々関わる、全ての人との時間を単純に感謝して、そういうものが与えられている事実に感動しました。
うおー、神様ありがとう!って。だってね、それが神様であるのはキリスト者だからだけど、そうでなくても、そんな素晴らしい関係、機会に恵まれることって、「全部俺のおかげじゃ」なんて思えないんですもの。
はー・・・幸せ。
そしてつくづく思えば、孤独というものだって、そりゃ「ひとりでも孤独だけど誰かといても孤独なのはあったりまえじゃー」とも言えるけど、それを暗い気持ちでとらえていたけれども、そうじゃなくって、「それぞれに与えられたgiftがあって、それは皆違うもので、そしてそれをひとりひとりが”自分のgift”を掘り出して磨いていく、ひいてはそれが周囲にもつながっていく」ことに専心するのは「ひとりよがり」でも単なる「ビバ自分」でもなくって、「正しく美しく尊い義務」なんだなーって思いました。そうしていく人たちと、自分とが、点や線でもって関わる場面があって、機会があって。勿論悲しい気持ちでその関わりが終息しちゃうこともあるんだけれど、でも「すごいな」って思って尊敬・尊重できる人と出会えた、関われた輝きそのものは、誰にも奪えないなと。そして終わってしまっても、相手の、自分の「gift増やし」は続いていって、また新たな輝きにつながるんだなあって。勿論、幸せなことに、永らく続く関係だっていっぱいあるわけで。
そう思ったら、生きていること、自体がとんでもなく幸せって思えるなと。
今日は礼拝で明日誕生日(もう今日か)であると紹介していただき、お祈りいただきました。牧師の祈りは耳に聞こえる。で、それを聴いていたけれど、ふ、と、「ああ、会堂にいる人たちが、それぞれに祈ってくださっているんだな」って気付いて、うおー幸せや!と思いました。祈り、だったから、信仰が同じだから、だけじゃなくって。祝ってくださる人が少なからず与えられているんだ・・・って。それを、気付かずにきた私もたいがいですけど。
そしてピアノ上に飾られていた花、を活けてらした方が、その大事なお花をくださいました。またまた感謝・・・。
昨年は30歳節目や!とか思って、祝ってもらうことに腐心していた面があって。で、よりによって総会あったり長引いたり、よっぱー背負って帰ったりなんかして。ぶーぶー思ってたこともあったけど。
でもね。あの日ひとりで帰って寝るってのじゃなかったことそのものが、幸せやったやんと思います。結構ネタにしてるけど(ミハごめん)。
今は彼女がうちにくることもないんだけども、時折思い出すのは、ある日彼女が来てるってのに、どーしても眠くて寝ちゃって、ぼんやり半覚醒したときに、丁度彼女がぱちぱちと電気を消しているのを見たときに、なんとなく、ふんわりあったかい安心した気持ちになったこと。
一緒にいてくれる人がいる。めちゃめちゃ嬉しいなって思います。
みんなありがとー!!
by blessedcoco
| 2007-03-19 01:29
| 日々の出来事