2011年 01月 17日
お手軽海外旅行。 |
しかも日本語、通じます。
・・・と言いたくなるような・・・
この門構えっ。
とか、
とかっ。
「中国行ってきました」。そう言いたくなるってものです。
が、宇治です。黄檗です。萬福寺です。(Wikipediaとお寺のサイト)。
このお寺は、中国は福建省からやって来た(というか呼んだ)隠元禅師がひらかれたもの。だから、と言ってよいのか(だって中国のお坊様がひらかれたお寺って他にもあると思うんですがここまで異国情緒なのを建てられたのは別の要因がありそうなんですもん。そういうのを楽しんだ土地柄があったとかさ)わかりませんが、日本のお寺、というイメージから離れた空間になっています。
こうやってあちこちに掲げられた書(というか看板というか)だって、おおらか~で素敵です。
狛犬は日本だけのものじゃないけれど、こういう配置は日本のもの?
以前、座禅を組みに伺った際にお坊さまから丁寧にご案内いただきましたが、お経の読み方もユニーク。伝えられた当時の中国語で口伝されているそうです。もっとも、「発音はかなり変わってるはずですけど」とのことでした。
ちなみに今回はお坊様のお姿をまーるで見ませんでしたね。というわけで、ご案内とご説明いただく機会をいただけたっていうのは、かなりレアで有難いことだったのかもしれません。
ユニークといえば・・・
本堂の前に、布袋様がいらっしゃいます。こういう伽藍配置は中国のものだとか。
布袋様は弥勒菩薩の化身だとのことですが。こちらでは、とっても福顔な布袋さまがどーんといらっしゃって、またまたおおらかな雰囲気を醸し出しています。
それから・・・
開梆(かいぱん)。木魚の原型といわれるこれは、現役で使用されていて、食堂前に配置されているのですが、「飯でっせえええええ」など、時を報せるのに使われているのだそうです。へー。
と、書いておいて肝心の本堂の写真がありませんが。ご本尊はお釈迦様です。
以前伺ったときは、丁度読経の時間に居合わせて、お坊さま方が朗々と読経(座ったままではなく、くるくる位置を変えながらだったと記憶していますが、さて)していらっしゃいました。
ここの他に香港でも(寶蓮寺、ってここも禅寺だった)読経は聴いたことがありますが、特に仏教に信心しているわけでもないどころかクリスチャン(完全一神教徒とは言いがたいですけども)な私にしても、とっても厳粛な気持ちになります。心が洗われて清清しい心もちになります。
宗教は人類最大の発明、とも言われますが、発明にせよ真理にせよ、こうして、「見えないものが”ある”と信じる心」や、「見えない”何か”に感謝を捧げること」というのは、欠くべからざることだと、そう思います。
と同時に、勿論、「自分が”ほんもの”と思うもの以外のものもオッケーと思うこと」も。
誰しも、「自分が導かれた道」というものを持つ可能性はあります。そして、「他の道」に導かれる人たちだっているし、「同じ道」のようでいて、別のものを見ていることだってあります。それら全てが、「アリ」なんだと、私は思います。そうでなければ、平和はないとも思います。これは宗教に限らないこと。
・・・難しいですけどね。宗教に関してより、他のことについてのほうが、何倍も。
それに、「自分が導かれた道」についても、「それが絶対」かはわからない。そして、その「道」ですら、自分の思いいれなどが入ることは避けられないから、「正しくとらえている」と思ってしまうことは、非常に危険だとすら思います。
私もキリスト教について、今だってろくに知らないという状態ですが、中学・高校(キリスト教に基づく教育機関でした)のとき、「なんて選民意識の強い宗教なんだ」って思ってました。また、「万人は罪人である」という概念もわからなかったし、「罪はすべて赦される」というのも、「け、都合いいことったら」って思ってました。それら全てが「そうじゃない」ことを、知ることができたのは、それから10年以上の年月が必要だったのです。
「わたし」が信じるものを大切にし、その道を追求することは、尊い。
けれど、
「あなた」が信じるものも大切にし、その道を追求することを励ますことはできなくても、喜ぶことは、できるはずだし、必要だと、そう思います。
・・・と言いたくなるような・・・
この門構えっ。
とか、
とかっ。
「中国行ってきました」。そう言いたくなるってものです。
が、宇治です。黄檗です。萬福寺です。(Wikipediaとお寺のサイト)。
このお寺は、中国は福建省からやって来た(というか呼んだ)隠元禅師がひらかれたもの。だから、と言ってよいのか(だって中国のお坊様がひらかれたお寺って他にもあると思うんですがここまで異国情緒なのを建てられたのは別の要因がありそうなんですもん。そういうのを楽しんだ土地柄があったとかさ)わかりませんが、日本のお寺、というイメージから離れた空間になっています。
こうやってあちこちに掲げられた書(というか看板というか)だって、おおらか~で素敵です。
狛犬は日本だけのものじゃないけれど、こういう配置は日本のもの?
以前、座禅を組みに伺った際にお坊さまから丁寧にご案内いただきましたが、お経の読み方もユニーク。伝えられた当時の中国語で口伝されているそうです。もっとも、「発音はかなり変わってるはずですけど」とのことでした。
ちなみに今回はお坊様のお姿をまーるで見ませんでしたね。というわけで、ご案内とご説明いただく機会をいただけたっていうのは、かなりレアで有難いことだったのかもしれません。
ユニークといえば・・・
本堂の前に、布袋様がいらっしゃいます。こういう伽藍配置は中国のものだとか。
布袋様は弥勒菩薩の化身だとのことですが。こちらでは、とっても福顔な布袋さまがどーんといらっしゃって、またまたおおらかな雰囲気を醸し出しています。
それから・・・
開梆(かいぱん)。木魚の原型といわれるこれは、現役で使用されていて、食堂前に配置されているのですが、「飯でっせえええええ」など、時を報せるのに使われているのだそうです。へー。
と、書いておいて肝心の本堂の写真がありませんが。ご本尊はお釈迦様です。
以前伺ったときは、丁度読経の時間に居合わせて、お坊さま方が朗々と読経(座ったままではなく、くるくる位置を変えながらだったと記憶していますが、さて)していらっしゃいました。
ここの他に香港でも(寶蓮寺、ってここも禅寺だった)読経は聴いたことがありますが、特に仏教に信心しているわけでもないどころかクリスチャン(完全一神教徒とは言いがたいですけども)な私にしても、とっても厳粛な気持ちになります。心が洗われて清清しい心もちになります。
宗教は人類最大の発明、とも言われますが、発明にせよ真理にせよ、こうして、「見えないものが”ある”と信じる心」や、「見えない”何か”に感謝を捧げること」というのは、欠くべからざることだと、そう思います。
と同時に、勿論、「自分が”ほんもの”と思うもの以外のものもオッケーと思うこと」も。
誰しも、「自分が導かれた道」というものを持つ可能性はあります。そして、「他の道」に導かれる人たちだっているし、「同じ道」のようでいて、別のものを見ていることだってあります。それら全てが、「アリ」なんだと、私は思います。そうでなければ、平和はないとも思います。これは宗教に限らないこと。
・・・難しいですけどね。宗教に関してより、他のことについてのほうが、何倍も。
それに、「自分が導かれた道」についても、「それが絶対」かはわからない。そして、その「道」ですら、自分の思いいれなどが入ることは避けられないから、「正しくとらえている」と思ってしまうことは、非常に危険だとすら思います。
私もキリスト教について、今だってろくに知らないという状態ですが、中学・高校(キリスト教に基づく教育機関でした)のとき、「なんて選民意識の強い宗教なんだ」って思ってました。また、「万人は罪人である」という概念もわからなかったし、「罪はすべて赦される」というのも、「け、都合いいことったら」って思ってました。それら全てが「そうじゃない」ことを、知ることができたのは、それから10年以上の年月が必要だったのです。
「わたし」が信じるものを大切にし、その道を追求することは、尊い。
けれど、
「あなた」が信じるものも大切にし、その道を追求することを励ますことはできなくても、喜ぶことは、できるはずだし、必要だと、そう思います。
by blessedcoco
| 2011-01-17 23:49
| 日々の出来事