2009年 11月 08日
1デナリオンの意味するもの。 |
しばらくの間、教会から遠ざかっていた私ですが、2週連続で礼拝に招かれています。
お説教は有名な「1デナリオンのたとえ話」。て、そういう呼び方かは知りませんが。
ぶどう園の主人がその辺でたむろしている人々を「1デナリオンでどない?」とスカウトして日雇いをする。スカウトした時刻は9時、12時、3時、そして5時。終業時刻は6時です。
最後に来た人たちから賃金を支払っていると、朝から働いている人が文句を言います。自分は朝から働いているのに、どうして1時間しか働かなかった人までも1デナリオンなんですか?
主人は答えます。そうしてやりたいのだ、と。
ただこれをそのままの話ととらえるならば、現代の価値観からすると「理不尽」ととらえられますが、これはたとえ話であり、また、現代の価値観というものが(それすらも多様だけれど)正しいわけでもありません。
牧師が言うには、この1デナリオン、という金額は、当時の人々が一日を生き抜くために必要なもの。つまり、「労働対価」ではなく「命の価」だった、ということでした。
だから、9時から働いた人と、5時から働いた人の労働価値が一緒で、長く働こうが短く働こうが一緒だよん、という話でもなければ、「んじゃあ遅く行った方が、楽じゃん」という話でもないのです。
たとえ話だしぃ、ま、これ、わかりやすいよねん、とか思っていた私ですが、この意味は知らなかったし、つまり、わかってなかったということになりますが、すごーく感動しました。正しく言うと、心の中の何か、つかえていたもの、或いは空虚だったところが、ぽこんと抜けた、あるいははまった、全く違うようですが、そんな感覚で、要するに、新しいものを得させていただき、それが今の私にとって素晴らしい価値のあることだったのでした。
早くに招かれたから、遅くに招かれた者より優れている。それは神の価値観ではないし、誰もを愛している、それも、その人の命、存在そのものを等しく愛していて、誰とも比べてない、ということなのだ、と、牧師の説教がそのままだったかは自信はないけれど、私というフィルターを通していただいたメッセージは、それでした。
そのままの自分、それを認め、とことん愛し、しかも誰とも比べなくていい。これは、ほんとうに、そう思える、その上に立って生きられるかそうでないかは、人生を大きく変えます。自分を変えます。
と、そこで終わればただ自分自身の平安、ということになってめでたしめでたし、なんですけど。
ということはですよ。
例えば自分にとって嫌だなと思う人や、星が違うわ・・・と思う人、もう一瞬たりとも頭を離れないほどに辛いと思っているものの原因と思っている人、も、神は愛しておられるのねえ・・・ということで、そうすると、あらそうなの?どしたらいいのかしら?と私は正直なところ、思いました。し、思ってます。
まだこれは決着が着かず、従って悩ましいんですが。
人を責めること、について、その人のありようとそのありようの延長線上にある成長、について、そして誰かが誰かを気にかけて、成長を願い、手助けしている事実と、それがその人にとって必要なものか、そのギャップ、について、など考えたりしていることもあって(これ、上の話とつながらないと思われるかもしれませんが、今の私には核なんです)、じゃあどこで折り合いつけたらいいのさ?と思っています。
ともあれ、このお説教はとても私にとって重要なものであったし、実は牧師の話について、この方、熱心でおられるし、高度な話をわかる形でお話されるけれど、痛みというものを、どの程度経験されたんだろう・・・なんて思っていたんです。偉そうなんですが。
でも、あ、そう思っている私が間違っていた、と思ったし、それは私にとってものすごい収穫と機会でありました。
なんかすごい恥ずかしい暴露なんですけどね。
それから、礼拝堂の扉開けるなり、球児と対面しました。おおおお!?
神学生としてはたらいているのか、忙しそうで、「だから話できないかもと思って」と、手書きのメッセージをくれました。
すごく嬉しくて感謝でした。
そして、母教会の前任の牧師にも会いましたが(球児が教えてくれた)、開口一番に仰ることには。
「なんでここにおんねん」
いて悪いか。
でも、彼も忙しい中、立ち話であれこれ近況聞いたりしてくださって、こういう心遣いが、この方の素晴らしいところだったな、と改めて、そしてこれまた、感謝して帰ることができました。
引っ越して、環境も変わり、今までの人間関係も物理的な意味で変わってしまったけれども、今の住処の周囲の情報を聞ける人がいて、教会も近くにあるだけでなく、なじんだ、そして少し遠くなってしまった人たちがいて、またいくばくかつながることができて、それはほんとうに恵まれているんだ、と思いました。
お説教は有名な「1デナリオンのたとえ話」。て、そういう呼び方かは知りませんが。
ぶどう園の主人がその辺でたむろしている人々を「1デナリオンでどない?」とスカウトして日雇いをする。スカウトした時刻は9時、12時、3時、そして5時。終業時刻は6時です。
最後に来た人たちから賃金を支払っていると、朝から働いている人が文句を言います。自分は朝から働いているのに、どうして1時間しか働かなかった人までも1デナリオンなんですか?
主人は答えます。そうしてやりたいのだ、と。
ただこれをそのままの話ととらえるならば、現代の価値観からすると「理不尽」ととらえられますが、これはたとえ話であり、また、現代の価値観というものが(それすらも多様だけれど)正しいわけでもありません。
牧師が言うには、この1デナリオン、という金額は、当時の人々が一日を生き抜くために必要なもの。つまり、「労働対価」ではなく「命の価」だった、ということでした。
だから、9時から働いた人と、5時から働いた人の労働価値が一緒で、長く働こうが短く働こうが一緒だよん、という話でもなければ、「んじゃあ遅く行った方が、楽じゃん」という話でもないのです。
たとえ話だしぃ、ま、これ、わかりやすいよねん、とか思っていた私ですが、この意味は知らなかったし、つまり、わかってなかったということになりますが、すごーく感動しました。正しく言うと、心の中の何か、つかえていたもの、或いは空虚だったところが、ぽこんと抜けた、あるいははまった、全く違うようですが、そんな感覚で、要するに、新しいものを得させていただき、それが今の私にとって素晴らしい価値のあることだったのでした。
早くに招かれたから、遅くに招かれた者より優れている。それは神の価値観ではないし、誰もを愛している、それも、その人の命、存在そのものを等しく愛していて、誰とも比べてない、ということなのだ、と、牧師の説教がそのままだったかは自信はないけれど、私というフィルターを通していただいたメッセージは、それでした。
そのままの自分、それを認め、とことん愛し、しかも誰とも比べなくていい。これは、ほんとうに、そう思える、その上に立って生きられるかそうでないかは、人生を大きく変えます。自分を変えます。
と、そこで終わればただ自分自身の平安、ということになってめでたしめでたし、なんですけど。
ということはですよ。
例えば自分にとって嫌だなと思う人や、星が違うわ・・・と思う人、もう一瞬たりとも頭を離れないほどに辛いと思っているものの原因と思っている人、も、神は愛しておられるのねえ・・・ということで、そうすると、あらそうなの?どしたらいいのかしら?と私は正直なところ、思いました。し、思ってます。
まだこれは決着が着かず、従って悩ましいんですが。
人を責めること、について、その人のありようとそのありようの延長線上にある成長、について、そして誰かが誰かを気にかけて、成長を願い、手助けしている事実と、それがその人にとって必要なものか、そのギャップ、について、など考えたりしていることもあって(これ、上の話とつながらないと思われるかもしれませんが、今の私には核なんです)、じゃあどこで折り合いつけたらいいのさ?と思っています。
ともあれ、このお説教はとても私にとって重要なものであったし、実は牧師の話について、この方、熱心でおられるし、高度な話をわかる形でお話されるけれど、痛みというものを、どの程度経験されたんだろう・・・なんて思っていたんです。偉そうなんですが。
でも、あ、そう思っている私が間違っていた、と思ったし、それは私にとってものすごい収穫と機会でありました。
なんかすごい恥ずかしい暴露なんですけどね。
それから、礼拝堂の扉開けるなり、球児と対面しました。おおおお!?
神学生としてはたらいているのか、忙しそうで、「だから話できないかもと思って」と、手書きのメッセージをくれました。
すごく嬉しくて感謝でした。
そして、母教会の前任の牧師にも会いましたが(球児が教えてくれた)、開口一番に仰ることには。
「なんでここにおんねん」
いて悪いか。
でも、彼も忙しい中、立ち話であれこれ近況聞いたりしてくださって、こういう心遣いが、この方の素晴らしいところだったな、と改めて、そしてこれまた、感謝して帰ることができました。
引っ越して、環境も変わり、今までの人間関係も物理的な意味で変わってしまったけれども、今の住処の周囲の情報を聞ける人がいて、教会も近くにあるだけでなく、なじんだ、そして少し遠くなってしまった人たちがいて、またいくばくかつながることができて、それはほんとうに恵まれているんだ、と思いました。
by blessedcoco
| 2009-11-08 18:57
| 日々の出来事